2024年10月22日火曜日

【次回例会紹介】津軽三味線の伝統を踏襲しつつ、さらなる進化をめざす、次世代の継承者 ― 浅野 祥(津軽三味線奏者)

次回例会は、国内外の第一線でご活躍されている津軽三味線奏者・浅野祥さんの登場です。
今回のブログでは、浅野祥さんへのインタビューをご紹介します。
聞き手 小巻健(三木労音事務局長)

浅野祥さん



―浅野さんが津軽三味線を始められたきっかけは、お祖父さんの三味線だったそうですね。

浅野祥さん(以下、浅野さん) はい。祖父は大工の棟梁で、毎日朝から晩まで外で仕事をして、帰ってきて趣味の津軽三味線を弾いて、お風呂に入ると気持ちよさそうに民謡を歌う、そんな人でしたので、子どもの頃私も祖父と同居していましたが、家の中は常に民謡や三味線の音がしているという環境でした。
私が三味線をするようになると、祖父は「とにかく楽しくやりなさい」と。とはいえ、コンテストに挑戦するようになると、時に練習が嫌だと感じることもあり、そんな時祖父は、「じゃあ今日は1分だけでいいから一緒にやろう」と言って三味線に向かわせてくれました。そうして一旦弾きはじめると、気がついたら6時間ぐらい経っているのですけど(笑)。今思えばそうやってうまく導いてくれていました。
あともう一つ、「芸は身を助ける」ということもよく言われていました。子どもの頃はよく意味が分からなかったのですけれど、今になると三味線を弾いていることで世界中の色んな人と出会えましたので、三味線をやっていて良かったなと思います。
そんな祖父でしたが、大会三連覇を前に60代で他界しました。もし今、祖父に声をかけるとしたら「おかげさまで楽しくずっと弾いてるよ」と言いたいですね。

―浅野さんは海外での演奏機会も多いですが、海外で演奏したいと思うようになったきっかけ、また実際に演奏して気づかれたことを教えてください。

浅野さん 小学生の頃、自分でテーマを見つけてそれについて調べていくという授業があり、私は世界の戦争・紛争について調べました。その時に、被害を受けている人々に三味線を聞いてもらって癒しを届けたいなと思い、それが初めて海外の人に三味線を聞いてもらいたいと思うようになった時でした。
戦争について関心を持ったのは、前述の祖父から戦争の話を何度も聞かせてもらったことです。私の出身の仙台は、太平洋戦争の時に「仙台大空襲」という、東北の中で最も空襲の被害を受けた土地で、祖父もそれを経験しました。
実際に海外で演奏したのは、デビュー後にアメリカのワシントンDCにある「ケネディセンター」という、音楽家にとって登竜門のようなコンサートホール、そこで演奏したのが初めてでした。アメリカの聴衆は、三味線に対し無垢な状態で聴いてくださいましたが、演奏後スタンディングオベーションをいただき、そのストレートな反応にすごく驚いて、三味線という楽器、音は人に訴えかける力がすごくあるのだろうなと漠然と感じました。
私が10代の頃、三味線をやっているというと周りから奇異の目で見られがちだったのですが、心が折れることなく、自分の演奏をただ一生懸命届ければいいんだという考え方になれたのは、そのアメリカでのコンサートがとても大きな影響を及ぼしているなと思います。

―東日本大震災をきっかけに変化されたことがあったそうですね。

浅野さん 東日本大震災が起きたのは私が21歳の時、デビューして4年目くらいの時でした。それまではありがたいことに膨大な数のコンサートを行っていたのですが、東日本大震災が起きて、その流れがパタッと断ち切れ、一旦ゼロに戻りました。そこで僕は何のために、何がやりたくて頑張っていたのだったかと今一度心に問い、ショーアップされた三味線のコンサートだけでなく、今目の前にいる一人を喜ばせたい、そういう気持ちになれたことは、今思えば現在の演奏活動につながる大きな分岐点だったなと思います。
 また震災で仙台の実家が全壊したのですが、その家は大工だった祖父が自分で建てた家だったので、ただ廃棄処分されるのが嫌で、床柱から三味線を2挺作り、今でも時として使っています。

―浅野さんは津軽三味線演奏の他に民謡も歌われますが、民謡の魅力とは?

浅野さん 私は楽器の音だけで何かを伝えるということに特化してやってきましたが、一方で「人の声」が持つパワー、何かを伝えたい時に、楽器を演奏するよりも声で伝えた方が、明らかに伝わるスピードも深さも違うということを感じるようになり、自分でも歌うようになりました。
日本の民謡の面白さは、一つはその歌が生まれた土地の風土などが歌になって残っているということです。その土地の人々の気風なども歌として残っているものもあり、世界的に見てもここまで地域ごとに豊富に残っていることは珍しいそうです。今、グローバル化が良しとされ、インターネットでいつでも地球の裏側の情報が得られる時代ですけれども、ここに至るまでのそれぞれの地域での人々の歩みというのは、ネットや教科書で知るだけでなく、伝わってきた歌を聴くことでより身近に親しみをもって感じ、感謝する、そういう部分を僕は大切に歌って伝えていきたいです。
今、小学校公演に行くと、6年生でも東日本大震災を知らないくらい時が経ちましたが、あの時仮設住宅を100軒ぐらい回った時に聞かせてもらったお話は、また起り得るものなので、未来に教訓として伝えていくという点でも、民謡はその手段としても優れていると僕は思っています。
また、民謡という音楽を残していきたい、そのためには時代に合った進化をしていかないといけないと思い、ソロ以外に「MIKAGE  PROJECT」という若手邦楽器3人によるユニットで、民謡を現代のサウンドで再構築する試みをしています。
民謡もその昔は、歌い手が結構自由に独自のアレンジをして進化し続けてきたのですが、昭和の後期ぐらいからそれがピタッと止まった。コンクール文化が生まれたことで、ここの節は何回回してとか、そういう教則本が出たことで型が決まってしまい、それ以外の歌い方をした人、個性を出した人が排除されていった時代が続きました。本来、民謡というのは自由なはず、民の歌ですから。
私たちはJ-POPを聞いて育ってきた今の30~40代の方々に向けてサウンドの入口を広げて、どこからでも入ってきて下さいねという気持ちで活動を展開しています。

―津軽三味線の大切にしたい部分は?

浅野さん シンプルに言うと音色です。私は津軽三味線の音色がとにかく好きで、祖父の津軽三味線によって三味線の音色にズドーンと心を射抜かれた自分がいたので、その感動は三味線を弾いている限りいろんな方に届けたいですね。
その上でプロの演奏家としては、やっぱり自分が一番納得する音色を追求したい。それは楽器職人さんとも相談しながら、しかし一方的に職人に頼るでなく、奏者としては撥の厚みや当て方、角度などを研究し、最高の楽器から最高の音を出す努力を、大切にしています。
私は津軽三味線の音色の中でも「美しい弱音」が何より好きで、3枚目のアルバム『BELIEVE』をフランスのお城で録音した際、日本で弾くのと同じようにバシバシ叩いていると、石造りの壁に反響しすぎてメロディーがまったく分からず撥の音しか聞こえない(笑)、その時にやっぱり津軽三味線も弦楽器なのだから、メロディーを届けたいと思い、色々な奏法や音色を編み出したのがそのきっかけでした。

―他のジャンル、楽器とのコラボレーションも多く経験されていますが、そこからどのようなことを得られましたか?

浅野さん 津軽三味線は基本的に津軽の民謡を弾く楽器で、そこを突き詰めていくと津軽の音階でしか音楽を奏でられません。例えばジャズとやるのだったらジャズの音階やセオリーをしっかり勉強して、サルサをやるならサルサのリズムを一から勉強して、他ジャンルとコラボレーションする時にはそのように向き合っています。そうすると、例えば三味線は基本的に人差し指、中指、薬指の3本しか使わないですが、ジャズの音階を弾くためには小指を使わないといけない、またハープと合わせる時にはどうすれば津軽三味線の強めの音とハープが交わるのかと撥の当て方を変える、そんな風にいろんなことをやっていくと、逆にそれらの経験を持って津軽じょんがら節を弾くと、これは間違いなく自分だけのじょんがら節になると思いました。いろんなフィールドで様々ことを吸収して、それらをじょんがら節に還元したい、そこは常に意識していますね。おそらくそれを最初に実践したのが高橋竹山さん(初代)ではないでしょうか。当時は突拍子もない演奏と思われたと思いますが、それが津軽三味線の歴史の分岐点だったわけです。私もそのような創作的な音楽家でいたいし、伝統音楽を弾いているからこそ、一歩その型を破った新しいスタイルというものを生み出していきたいと強く思っています。
 
―影響を受けたアーティストを教えてください。

浅野さん 幅広く言うとフォークシンガーですね。僕がとても好きだったのは井上陽水さん、泉谷(しげる)さん、三上寛さんなど。あとは日本以外ではカントリー&ウエスタンのジョニー・キャッシュ。とにかく声とギター1本で観客を沸かせられるという、そこに憧れました。デビューした時は、上妻宏光さんとか吉田兄弟さんのようにバンドを従えてツアーをしたい思いもありましたが、そこをぐっとこらえて、まずは一人で90分なり2時間なりを、目の前のお客様を楽しませられる底力をつけようと思いました。それが出来るようになればバンドを従えたらより楽しいライブができるぞと、なぜか10代の時にそう思いました。
さらに幅広く言うと、マイケル・ジャクソンが僕の中でのバイブルです。彼の音楽ももちろん大好きなのですけれど、あのカリスマ性。後ろに従えているダンサーは世界各国から集めた一流の人達なんだろうけれど、真ん中で踊っているマイケルが一番観客の目を弾くというあのカリスマ性とステージング、あの感じがとても好きです。私も今では一流のゲストを迎えてのコンサートも行いますが、その人達に呑まれず常に自分が音楽を仕切るという時は、マイケルの姿を思い出しています。

―12月1日の三木労音例会は、どんなコンサートになりますか?

浅野さん もちろんコンサートでは津軽三味線のすべてを聞いていただきたいです。あの津軽らしさ、他の楽器には決して持ち合わせていない、津軽三味線だからこその音色、曲をたっぷり演奏します。と言うと、堅苦しそうと思われる方ももしかしたらおられると思いますが、初めて聴く方でもとても楽しめる、多分聞いたことのない津軽三味線のコンサートであることは間違いないです。
あと、津軽三味線は半分弦楽器、半分打楽器の楽器だと思っています。リズム感が命みたいな部分と、一方で小川が流れるような清らかな音色というのも実は持っている楽器で、それは津軽の人達の哀愁にも起因しているのかもしれません。とにかくその音色の幅広さというところにもぜひ注目してもらいたいです。
最近、日本のアニメが世界中で流行っていますが、そんなアニメにも津軽三味線の音色が結構使われています。私も今『推しの子』という作品で弾いていますが、そんなふうに知らず知らずのうちに耳にしている津軽三味線という楽器を、ぜひ目でも見に来て、楽しんでいただきたい。
民謡や三味線を全く知らない方でもきっと楽しめるステージになると思います。そこはご心配なく(笑)来ていただきたいです。

(このインタビューは浅野祥さんのご協力をいただき、9月17日にZoomにて実施しました。)



浅野 祥 プロフィール
宮城県仙台市出身|1990年3月2日生まれ
仙台第一高等学校|慶應義塾大学 卒業

祖父の影響により、3歳で和太鼓、5歳で津軽三味線を始める。
その後、三絃小田島流 二代目小田島徳旺氏に師事。
7歳の時、青森県弘前市で開催される津軽三味線全国大会に最年少出場し、翌年から各級の最年少優勝記録を次々と塗り替える。
2004年 津軽三味線全国大会、最高峰のA級で最年少優勝(当時14歳)その後、2006年まで連続優勝し、3連覇を達成。同大会の規定により、殿堂入りを果たす。※津軽三味線世界大会(旧大会名:津軽三味線全国大会)
2007年17歳でビクターエンターテインメントより「祥風」でメジャーデビュー。以降、コンセルトヘボウ(オランダ)、ケネディ・センター(アメリカ)でのコンサートをはじめ、アメリカ、ヨーロッパ、カナダ、アジア各国でコンサートツアーを行うなど、海外に向けても積極的に発信する。
民謡、Classic、Rock、Jazz、Pops、フラメンコなどジャンルにとらわれない演奏スタイルにより、石川さゆり、山下洋輔、宮沢和史、yamaなど、様々なアーティストとの共演を果たす。中学生時には元BO?WY・高橋まこと(ドラム)とバンドを組んでいた。
自身のアルバムでは世界的なミュージシャンとの創作にも取り組み、ジャズ界の巨匠ウィル・リー(ベース)や、同じくジャズ界の若きスタープレイヤー、マーカス・ギルモア(ドラム)、2度グラミー賞に輝いたリチャード・ストルツマン(クラリネット)らとアルバム制作を行う。
和楽器奏者としては初めて日本最大級の音楽フェス『MONSTER baSH』に3年連続で出演するなど、様々なロックフェスやジャズフェスに出演。
近年では”日本遺産×芸能”をテーマに掲げる文化庁主催『NOBODY KNOWS』への参加など、日本文化の掘り起しや普及にも積極的に取り組む。また、日本各地の民謡を現代の感覚で作編曲する「MIKAGE PROJECT」や複数の邦楽演奏家からなる「ART歌舞伎楽団」に参加し、新たな音楽シーンを切り拓いている。

愛用する三味線は三絃工房の「滋丹」
日本屈指の三味線メーカーである三絃工房と、2023年に三味線奏者として世界初のエンドースメント契約を締結。

このような国内外に向けて日本の伝統文化である津軽三味線の魅力を発信していく活動が認められ、浅野の活動が令和元年より政府公式プログラム「beyond2020」の承認事業プログラムに正式決定した。
本来の民謡、古典芸能の追及はもちろんのこと、幅広い世代に三味線の魅力を伝えるべく、津軽三味線の可能性を追い求める孤高の若き津軽三味線奏者。

◆レギュラー番組 TBC東北放送『杜の都信用金庫 プレゼンツ 浅野祥 ラジオ “祥”case』 毎週火曜日16:40~放送中
◆レギュラー番組 AuDee “TOKYO FM & JFN系列38局” 『いぎなり!! ミカゲ民謡!!』
毎週金曜日20:00~放送中
◆レギュラー番組 NHKラジオ第1『民謡をどうぞ』(番組放送作家:浅野祥)
毎週金曜日12:30~放送中
公式ホームページ http://sho-asano.com/


三木労音10・11月例会(第203回)
浅野 祥 津軽三味線コンサート
2024年12月1日(日)14:00開演
三木市文化会館小ホール
三木労音会員へ入会希望の方は、チラシ裏の入会申込書に会費2か月分(浅野祥例会から参加希望の方は10・11月分)と入会金(1,000円)を添えて、三木労音会員か事務局までお申し込み下さい。
ホームページからの入会申込みはこちら→http://www.mikiroon.com/info.html
詳細は三木労音事務局 TEL 0794-82-9775、またはメールinfo@mikiroon.comまでお問い合わせください。

2024年7月4日木曜日

「三木市制70周年記念 三木の歌 うたう会」市内5か所の公民館で開催します!!

以前の投稿でも紹介しました「三木市制70周年記念 三木の歌 うたう会」を、この7月~8月の間に三木市内の計5か所の公民館をツアーして開催することになりました!


日程、会場は以下のとおりです。どなたでも参加できます!

7月14日(日)14:00~15:30 青山公民館2F講習室 定員30人
7月28日(日)10:30~12:00 細川町公民館1F講座室 定員20人
8月11日(日)14:00~15:30 自由が丘公民館1F講座室 定員40人
8月18日(日)10:30~12:00 中央公民館2F第1研修室 定員30人
8月18日(日)14:00~15:30 別所町公民館2F視聴覚室 定員20人

各会場共通 参加費 100円(楽譜代) 
※うたう会参加者で三木労音会員以外の方は、9月8日(日)「ダ・カーポ コンサート」(14:00~三木市文化会館小ホール、三木労音例会)の一般券4,500円が4,000円になります。

主催 三木労音 TEL 0794-82-9775/メール info@mikiroon.com

先日6/23に開催した「うたう会」はこんな感じで行いました😊

ぜひ多くの方のご参加をお待ちしています!!!!

2024年6月27日木曜日

極上のハーモニーと美しいダンスに、ハワイの風を感じたひとときでした!

今年は6月も終わりのほうになってから梅雨に入り、蒸し暑い日が続いていますね💦

さて少し前になりますが、まだ梅雨入り前の、しかもひときわ蒸し暑かった6月16日(日)、6・7月例会「コオルア ハワイアンコンサート」を三木市文化会館で開催しました。

開演前の時間にロビーで歓迎会をさせていただきました☆

写真中央がコオルアのマーティーさん、右がノリコさん、そして左がダンサーのユーキさん。

三木労音では初めてとなるハワイアン音楽のコンサート。
出演者もスタッフも、そして共演の地元フラグループ「フラハレ」(写真後部)の皆さんも、共に良いコンサートにしましょうと心をひとつにしました。

そしていよいよ開演。
幕が上がるとともに、コオルアのお二人の何ともリラックスした涼やかなサウンドと歌声が会場を包みました。

「コオルア」とは、「緩い」「2」という意味とお聞きしていましたが、音楽でゆったりと気持ちも身体も緩み、そして曲間のトークでもまったりとした関西弁の味で楽しいお話を聞かせていただき、皆さんを非日常の空間へといざなっていただきました。

そしてコンサート前半のハイライトは、地元フラグループの「フラハレ」の皆さんの共演ステージ。
総勢14名。ずらっと並ばれた姿は壮観でしたね!
間に2曲を挟んで、衣装も替えて2回ステージにご登場いただきました。
日ごろの練習の成果を余すことなく発揮され、「踊ることが楽しい」という気持ちが弾けた笑顔いっぱいのステージでしたね😊
コオルアのお二人も、皆さんのダンスで笑顔になれたと言ってくださいました。

そしてコンサート後半はプロダンサーのユーキさんのご登場。
ハワイのホテルで観れるようなフラショーのコンセプトのダンスに、観客の心は一気にリゾートへ。
いで立ち端麗、表情も豊か、全身の隅々まで思いが行き渡るような表現力に、思わずため息がこぼれるほどでしたね。

コオルアの歌うハワイアンソングは、古いハワイ語や英語の曲が中心なのですが、歌う前にその背景などをお話してくださるので、言葉が分からずとも楽しめます。
何よりお二人のとても良いお声、ハーモニーが本当に心地よく、そしてマーティーさんのスラックキーギター(緩めた調弦という意味だそう。ここにも「ゆるむ」が・・・)とノリコさんのウクレレによる豊かなサウンドで、言葉を超えて伝わってくるものがありました。

最後は再びユーキさんも登場。
雪の女神の美しいドレスを着た姿に、最後まで魅了されました。

今回のコンサートをいかに楽しんでもらおうかと、コオルアのお二人もユーキさんも多くの準備をしていただいたとのこと、その心づくしに本当に感謝です。
そのおかげで、私たちは歌と楽器、そして地元ダンスチームとソロのプロダンサーと2種のダンスから、ハワイの豊かな文化と歴史を感じることができたような、バラエティー豊かなステージを楽しませていただきました。

お三人とも関西を中心にご活躍されていますので、ぜひどこかに聴きに行ってみられてはいかがでしょうか。
また三木にお越しいただける機会ができればいいですね。
コオルアのマーティーさん、ノリコさん、そしてユーキさん、本当にありがとうございました!

受付付近に飾っていたお花は、ノリコさん宛に愛知から届いたものでした。

2024年6月24日月曜日

【次回例会紹介】人々の心の中にある〝歌〟を紡いで50年、幸せ運ぶ家族のハーモニー。 ― ダ・カーポ (フォークグループ)

次回例会は、『野に咲く花のように』『結婚するって本当ですか』などのヒット曲でお馴染みのフォークグループ、ダ・カーポの登場です。
今回のブログでは、ダ・カーポへのインタビューをご紹介します。
聞き手 小巻健(三木労音事務局長)

ダ・カーポ
写真左から、榊原広子さん、榊原まさとしさん、榊原麻理子さん



―前回、三木労音へお越しいただいた時(2020年8月)は、コロナ禍真っ只中でのコンサートとなりましたが、当時を振り返って今どのようなことを思われますか?

ダ・カーポ 私達音楽に携わっている者にとっても、大変厳しく辛い時期でした。90%以上の仕事が中止、延期になり、またいつまで延期になるのか分からない状況でした。
皆さんの前で歌えない悶々とした中、三木労音のコンサートが私達を精神的に救ってくれたと、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

―昨年8月にダ・カーポデビュー50周年を迎えられ、おめでとうございます! この間、全国各地で50周年記念コンサートを開催されていますが、ステージに立たれる中で感じてこられたことを教えて下さい。

ダ・カーポ 有難うございます。あっという間の50年でした。ステージに立っていると、50年間歌って来たことが自分でも信じられない気持ちです。
振り返ると、様々なハードルが立ちはだかり、超えることが困難な時期もありましたが、必ず誰かが手を差し伸べて下さり、また支えていただきました。そんな方々の顔を思い浮かべながら歌っています。
でも、なんと言っても力になったのは、ダ・カーポの歌を聴いて下さるファンの皆さんだと改めて思っています。


―ダ・カーポが近年最も変化があったことは何でしょうか?

ダ・カーポ 私ごとで恐縮ですが、なんと言っても娘に子供が誕生したことでしょうか。私達にとっては初孫です。コロナの収束の兆しが見えて来た頃でもあり、私達に希望の明るい光をくれました。
不思議なことに、曲作りにも影響して、スランプに陥っていて苦しんでいたのですが、創作意欲に火を灯してくれました。
50周年記念のオリジナルアルバムもリリースすることが出来ました。新しい生命の力に改めて驚いているところです。

―50周年を迎えられた今、音楽活動の中で大切にしていることを教えて下さい。

ダ・カーポ 今、歌いたい歌、また、歌うべき歌を作り歌うことでしょうか。

―コンサートへのメッセージをお願いします。

ダ・カーポ また、三木労音のステージで歌えることを大変嬉しく、感謝しています。ダ・カーポの50年の歴史と、今のダ・カーポを皆さんに聴いていただきたいと思っています。
先日、日本童謡協会から特別賞をいただきました。これまで100曲以上の童謡、抒情歌をレコーディングし、コンサートなどで大切に歌って来ました。そんな活動を評価していただいたのかと、大変嬉しく思っています。
当日はヒット曲から童謡、そして、ニューアルバムからたっぷりとお届けしたいと思います。また、パリで研鑽を積んできた榊原麻理子のフルートと、豊かな音色の榎本潤さんのピアノとのデュオもお楽しみに。
9月8日のコンサートで、皆さんとお会いできるのを楽しみにしております。

ダ・カーポより動画メッセージもいただいています!





ダ・カーポ プロフィール
いつまでも初心を忘れないようにという意味でダ・カーポ(音楽用語で最初に戻るという意味) と名付け、榊原まさとしと広子のデュオは1973年「夏の日の忘れもの」でデビュー。
翌年、フォーク調のさわやかなハーモニーで、「結婚するって本当ですか」の大ヒットを生む。
その後「野に咲く花のように」、「宗谷岬」、「よこはま詩集」、「ベストパートナー」など数々のヒット曲の他、これまでに数多く の TV の主題歌、キャンペーンソングなどに歌声を響かせている。
童謡、叙情歌、フォークソング、世界の名歌集のカヴァーアルバムなどもリリースし、幅広いレパートリーを持つ。
2人の娘、榊原麻理子は2008年よりメンバーに加入。2013年~2020年パリでのフルート留学にて研鑽を積み、帰国後メンバーに復帰。
2012年4月からは榊原広子がNHK-FM「音楽遊覧飛行」のパーソナリティを務めている。
2023年4月にデビュー50周年記念として発売した配信シングル「今日がいちばん若い日!」が、2023年4~5月のNHK「ラジオ深夜便」の『深夜便のうた』として放送されると、シルバー世代から大きな反響があり、現在もコーラスグループを中心に、たくさんの人々に歌われている。
6月にはオリジナルアルバム「未来への贈りもの」(オリジナル曲7曲収録)、2枚組ベストアルバム「ベスト・オブ・ダ・カーポ」、7月にDVD「ダ・カーポ ライブ&ベスト」、11月にCD-BOX「ダ・カーポ大全集ベスト」(5枚組)を発売。
8月にはデビュー50周年を迎えた。
今も変わらぬ歌声は、世代を超えて、根強い人気を得ている。
ダ・カーポ公式ホームページ http://business1.plala.or.jp/dacapo/

榎本 潤(ピアノ) プロフィール
国立音楽大学ピアノ専攻科を経て同大学院を修了。小林道夫、柳川守、ダン・タイ・ソンの各氏に師事。
第34回北九州芸術祭にて最優秀伴奏賞及び全日空賞受賞。ソリストとして、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団、ザルツブルク室内管弦楽団等と共演。また、岡本知高(ソプラニスタ)、錦織健(テノール)、古澤巌(ヴァイオリン)、大谷康子(ヴァイオリン)、山形由美(フルート)、赤坂達三(クラリネット)の各氏ら著名アーティストと全国各地で共演を重ねる。またチェンバロ、指揮、作曲、編曲など多方面で活躍。BS-TBS『日本名曲アルバム』、BSテレビ東京『おんがく交差点』等に出演。
現在、国立音楽大学及び同大学院講師(ピアノ)。Jスコラーズ音楽監督。


三木労音8・9月例会(第202回)
ダ・カーポ デビュー50周年記念コンサート
2024年9月8日(日)14:00開演
三木市文化会館小ホール

参加費 会員/会費のみ 一般/4,500円(中学生以下2,000円)
三木労音会員へ入会希望の方は、チラシ裏の入会申込書に会費2か月分(ダ・カーポ例会から参加希望の方は8・9月分)と入会金(1,000円)を添えて、三木労音会員か事務局までお申し込み下さい。
ホームページからの入会申込みはこちら→http://www.mikiroon.com/info.html
詳細は三木労音事務局 TEL 0794-82-9775、またはメールinfo@mikiroon.comまでお問い合わせください。

2024年6月20日木曜日

三木市制70周年記念 『大きな木』、『彩づく町』、三木の歌 うたう会を開催します!

9月8日(日)三木労音例会「ダ・カーポ デビュー50周年記念コンサート」で、『大きな木』『彩づく町』の2曲を客席みんなで歌うために、これから「うたう会」を開催していきます!

そして今回のうたう会では、三木市制70周年記念事業ということで、先の2曲以外にも様々な「三木にまつわる歌」を皆さんと一緒に歌い交わしたいと思っています。

代表的なものでは市政発布の年に作られた『三木市歌』、市制30周年の時に作られた都はるみ歌の『みき音頭』、市内金物資料館に歌碑がある『村のかじや』・・・まだまだありますので、そちらも楽しみにして下さい。

まずは第1回目として6月23日(日)に三木市立市民活動センター1F多目的室にて開催!

どなたでも参加OK!参加費は楽譜代100円のみ。

申し込み不要!ぜひどなたでもお気軽に遊びに来て下さい!!

楽譜が読めない方も、歌に自信がない方も、どなたでも大歓迎!!参加者のみなさんと歌い交わして、ふるさと三木への思いを一層深めませんか。


三木市制70周年記念 『大きな木』、『彩づく町』、三木の歌

うたう会

とき 2024年6月23日(日)13:30~15:00

ところ 三木市立市民活動センター 1F多目的室

参加費 100円(楽譜代) 誰でも参加できます!

※うたう会参加者で三木労音会員以外の方は、9月8日(日)「ダ・カーポ コンサート」(14:00~三木市文化会館小ホール、三木労音例会)の一般券が500円引となります。


主催 三木労音

TEL 0794-82-9775/メール info@mikiroon.com



神戸新聞2024年6月20日三木版にて記事を掲載いただきました!

これ以降にも大小の規模を取り交ぜて開催していく予定です。

3人集まっていただきましたら、どこへでも行きますので、あなたのお友達、ご家族での集まりにぜひ呼んで下さい!!

2024年5月13日月曜日

【次回例会紹介】ハワイに行ったことがある人もない人も、聴けば皆、ハワイが恋しくなる楽園音楽 ― KO'OLUA(ハワイアンユニット)+YUHKI(フラダンサー)

次回例会は、音楽でハワイの風を感じさせるユニット「コオルア」の登場です。
コオルアは、ハワイアン独特のギター奏法「スラックキーギター」の名手でボーカルのマーティーさんと、ウクレレとボーカルのノリコさんのお二人による、歌と楽器のユニット。
今回のブログでは、コオルアのお二人に、ゲストダンサーのユーキさんを交えてのインタビューをご紹介します。
聞き手 小巻健(三木労音事務局長)

KO'OLUA(コオルア) 左・MARTYさん、右・NOLIKOさん

YUHKI(ユーキ)さん



―まずはコオルアのお二人それぞれが、音楽を始められたきっかけ、またハワイアン音楽に出会われた経緯を教えて下さい。

マーティーさん 私がギターを始めたのは中学生の頃、周りでギターを弾ける友人が少なかったので、ギターが弾けるとモテる(笑)。そんなことで始めて、最初は本屋で買ってきたクラシックギターの教則本から始めて、その後は、当時流行っていた吉田拓郎さん、泉谷しげるさんなどのフォークソングを、自分でも歌を作りながら遊んでいました。そのうち外国のフォークソングに傾倒してゆき、大学生の頃にはカントリー&ウエスタンのバンドボーイもやらせていただくようになりました。
その後自分のバンドを持って、音楽活動をしていたある時、京都で遅くまで飲み歩いていたところ、開いている店を探して出会った店がハワイアンカフェでした。当時ハワイアンについてはよく知らなかったのですが、飲めるのだったらと入店、そこで流れていた音楽が耳に留まり、お店の人に「これ何という音楽ですか?」と聞いたら、「ハワイアンですよ」と。私がそれまでイメージしていたハワイアン音楽とは全然違っており、「これかっこええやん!」と衝撃を受け、そこからそのお店に通うようになったのがハワイアンとの出会いでした。

ノリコさん 私はフラの方から入りました。私がOLをしていた頃、時代はバブル期で、ハワイには買い物で何度も行きました。ある時一緒に行った友達に、せっかくハワイに来たのだからハワイらしいことをして帰ろう、と誘われて受けたフラのレッスンがきっかけで、そこから沼にはまりました(笑)。旅行から帰ってきたらすぐにフラの教室を探して通うようになりました。
また、フラのレッスンを受けた旅行でウクレレも買って帰りました。部屋の飾りになるかもしれないと安いものだったのですが、その後たまたますぐに日本在住のハワイ人の方と知り合い、その方がウクレレを弾いて歌う方で、ウクレレ持っているのだったら一緒に遊ぼう、と誘われたことを契機に、ハワイアン音楽にのめり込んでいきました。

―お二人が出会われて、コオルアを結成されたきっかけは?

マーティーさん 先ほどのハワイアンカフェに通うようになり、お店のオーナーさんとも親しくなって、ある時「ハワイアン音楽もやってみない?」と言われました。その時はまだカントリーのバンドをやっていましたが、ハワイアン音楽はまだよく知らない、でも曲のコード進行などカントリーと似ている部分もあったので、安請け合いしました。すると「実はこのお店のお客に女子大生ぐらいの別嬪のフラダンサーがいる」と話を振られたので思わず「紹介して」と(笑)。ひっかかったんですね(笑)。それで彼女(ノリコさん)に出会いました。
彼女に、今度出演するカントリーのライブでハワイアンコーナーをやるので、そこでフラを踊ってくれないかと声をかけたのですが、その時に、フラダンスはどんな曲でも勝手に踊れるものではなく、歌詞に合わせた振り付けがあり、こちらで選んだ曲がレパートリーになかったら踊れないことを初めて知りました。まずは相談して数曲を決め、カセットテープに入れてもらって帰りましたが、歌詞がハワイ語で全然わからない!歌詞を覚えるのに非常に苦戦しました。その時、ハワイアンをやるのだったらハワイ語もやらないといけないと思い、そこからハワイ語も勉強するようになりました。
その後カントリーのバンドも解散し、私自身はハワイアンに傾倒してゆき、そのうち一人でギターを弾いて歌うハワイアンミュージシャンとして活動を始めました。そしてCDを録音する段になって、少しウクレレの音を入れたいと思った時、確か彼女はウクレレが弾けたなと思い出し、声をかけました。

ノリコさん 私がハワイアンカフェでウクレレで遊んでいたのを彼が聴いてたので、初めてソロのハワイアンのアルバムを出すことになった時、私にウクレレで2曲だけ参加してほしいと頼まれました。その時私はまだステージでも弾いたことがないド素人ですよ(笑)。いいのかな?と思いつつ参加し、その後の「レコ発ライブ」にもついて行きました。2曲横でウクレレを弾くだけでしたが(笑)。

マーティーさん いや、フラも踊ってもらいました。そのうち歌もやろうか、ということに。最初は上手いんだけどカラオケの歌い方だったので、声域の広げ方、地声の響かせ方を少し練習して、すぐにデビュー(笑)。
そうして最初は、スラッキーマーティー・ウィズ・ノリコという形で2枚のCDを作るまで活動していましたが、3枚目を出す頃には二人でコーラスもやっていましたので、そろそろグループ名にしようと「コオルア」という名前をつけました。どういう名前にするか相談する中で、バンド名の頭の音が母音だと弱いので、子音で、K、P、Tなどの音の方がいいのじゃないかということで、ハワイ語辞書を片手に探しました。
コオルアというのは彼女が見つけたのですが、実はハワイ語の中でもたいそう古く、語源であるポリネシア祖語まで遡ったところにある言葉です。その意味は、二人で協力して何かをするというパートナー的なものです。また、「コオ」と「ルア」には、それぞれ「緩める」と「2」という意味もあります。二つ合わせて「ゆる~い二人」(笑)。まあそんな言葉遊びみたいなことで決めました。

ノリコさん 初めてのCDが2005年なので、そこから数えるともう19年になります。


―今回ご一緒に出演いただくダンサーのユーキさんとは?

マーティーさん 神戸市西区にあるハワイアンカフェ・ミューズキッチンのママさんの紹介で2017年に初めて出会いました。

ユーキさん 私はその頃ミューズキッチンでフラのレッスンや時にスタッフとして関わっていて、マミーの紹介でライブを聴かせていただきました。そしてその年、ミューズキッチン主催の大蔵海岸で行われるイベントのゲストにお二人が出られることとなり、私もその頃プロでやっていきたいことをマミーに相談していたので、初めて同じステージに出演させていただました。それが最初の出会いです。

―ユーキさんがフラを始めたきっかけは?

ユーキさん 私は元々小学校の教員をしていたのですが、帰るのがいつもすごく遅くて、休みがない生活が続いていました。そんな生活を続けるうちに、「帰れる日」を作りたくて、何か習い事をしようと考え、いろいろ考えた末にタヒチアンダンスの体験会に行ってみました。そこでフラもやっていたので、ついでに体験したのがきっかけでレッスンを受けるようになりました。そこからはまって、そのうち教員も辞めてハワイに留学しました。
ハワイから帰ってきて、学んだことを何かの形にしたいと、再度働きながら模索していたところ、先のミューズキッチンでの出会いがあり、プロとしてやっていく足がかりをつかみました。

マーティーさん 最近はコオルアとユーキとの3人で、音楽とフラのショーを、ライブハウスやイベント、企業さんのパーティーなどでやったりしています。

―あらためてハワイ音楽について教えて下さい。

マーティーさん 世界中でいろんな民族がそれぞれの音楽を持っていたように、ハワイにもハワイの音楽が昔からありました。古い時代のハワイの音楽は、例えば楽器にスポットを当てますと、太鼓などの打楽器、それから笛、弦楽器といえば板状のものに1本弦を張っただけの、口琴のスタイルのような、すごくシンプルな楽器を使っていました。
そこへ西洋人がやってくると同時に西洋の音楽が入ってきて、ハワイ音楽と西洋音楽の融合が進みます。一つはキリスト教の宣教師が伝えた讃美歌によって、西洋の音階とコーラスが、もう一つは畜産の技術を教えにやってきたメキシコのカウボーイたちによってギターが、それぞれハワイに入ってきました。初めてギターを手にしたハワイの人達は、彼ら自身のやり方で弾きはじめた、というのがハワイの近代音楽の始まりと言われています。そのハワイの人達が自由な発想で弾き始めた奏法が、現在のハワイアン音楽で使われているスラックキーギター、私が今弾いている奏法になります。
ウクレレが入ってきたのはそれよりも後で、ポルトガル系の人によって伝わりました。アフリカのマデイラ諸島、そこは当時ポルトガル領だったのですが、そこからの移民がハワイに渡ってきました。その時に持ち込まれたマデイラ諸島で使われていた小型の楽器がウクレレの原型になったと言われています。それがコンパクトで便利で、ハワイの王族たちが気に入って弾き出し、徐々に庶民に広がったそうです。
その後、アメリカ音楽がどっとハワイに入ってきて、ジャズの影響を受けたハワイアンソングもたくさん作られました。今では英語の歌詞のハワイアンソングもたくさんあります。
現在では様々なスタイルのハワイアン音楽がありますが、その根底にはハワイ独特のリズム感というものがあり、いくら近代的なギターを使ったとしてもそれは残っている、その根源的なリズムが音楽の遺伝子に残っているのでしょう。
ただ、今ではハワイでもハワイ語を喋れる人は減っています。昔は親のハワイ語を聞いて育ったという人がいましたが、今ではあまりいなくなりました。一部では幼少の頃からハワイ語で教育するという方法も行われているのですが、大多数は英語ですね。
コオルアが演奏する音楽は、ハワイ語の歌詞が中心で、その他にも古い英語の歌詞の曲、あとは日本語の曲も歌います。

―ステージではどのようなことを大切にされていますか?

マーティーさん 基本は、歌う時はお互いの歌をよく聞き合う、相手が弾いている音はしっかり聞くということを常に気をつけています。あとは僕がしゃべりすぎないよう注意するぐらい(笑)。ハワイアンソングを好きな方でも、言葉が分からないけどメロディーやハワイ語の響きがとても心地良いので聴くという方が多いと思います。ただ私達としては、これはどんな歌で、この歌を作った人はどんな思いで作ったのかということを伝えたい。だからついしゃべってしまいます(笑)。

ノリコさん それを喜んでくださるお客さんは多いのですが、長くなってくるとお客さんの様子を見て、そろそろやめさせないと(笑)。そんな調整をしています(笑)。

ユーキさん 私がやっているフラは、手の動きや表情で歌詞の内容を伝えるのが役割なので、歌詞をちゃんと理解する、あと、それにあった景色を、頭の中ではなく、そこにあるかのように踊る事です。コオルアさんと一緒にやる時は、踊っている時にもお互い見合いながら目で会話しています。

マーティーさん 先ほどお互いの歌や楽器の音を聞きながらと言いましたけれど、ユーキさんが入って3人での時は、僕らもユーキさんの踊りを見ていて、彼女は踊りで歌の風景や感情を表現していて、私達はそれを言葉とメロディーで表現している、だから3人が一体となることを心掛けています。

―最後に6/16の三木労音例会のステージにむけて一言お願いします。

ユーキさん コオルアさんの音楽は、ライブの時に「寝ていてもいいですよ」と言われているように自由に聴けます。リラックスして楽しんでもらって、梅雨時期でしんどくなりやすいと思いますので、心だけでも軽くして帰ってもらえたらと思います。

ノリコさん 私はユーキさんのフラが、ハワイに行ったことがない、ハワイを知らないという人にお勧めです。本当にハワイのホテルなどで観れるようなフラのショーをそのまま持ってきてくれます。

マーティーさん 皆さんの中にはハワイに旅行されたことがある人もあれば、ハワイを知らない人もおられるでしょう。でもハワイを知らない人でも「ハワイっていいな」とか、「ハワイ行きたいな」、あるいは「行ったことないのにハワイが恋しくなってきた」と思うようなステージをお届けできればいいなと思います。ハワイの空気感を伝えたいです。
今回は地元のフラグループ「Hula Hale(フラハレ)」さんとの共演もありますが、Hula Haleの皆さんにも楽しく踊っていただきたいです。それも楽しみにしています。





KOʻOLUA プロフィール
ハワイのルーツ音楽のひとつのスラックキー・ギター(変則チューニング奏法)とウクレレ、そしてデュエットハーモニーをフィーチャーした二人組ユニット。日本とハワイで演奏活動中。
その素朴な演奏スタイルから紡ぎ出されるローカル・ハワイアン・テイストで心地よい癒し系サウンドは、ハワイを知らない人でさえハワイが恋しくなる、と言われる。
また、二人の洗練されたハワイ語ハーモニーとギター奏法の美しさは、ハワイ現地でも高い評価を得ており、ハワイの音楽フェスティバルに招待出演、ハワイの音楽大賞にファイナリストとしてノミネートの他、豊富なハワイでのライブ演奏経験を持つ。

YUHKI プロフィール
2013年、フラダンスを始める。2014年、ハワイに留学。2015年、ハワイの名門ハレクラニホテルのトップダンサーである、カノエ・ミラーに師事。
2018年、プロフラダンサーとしての活動をスタート。2019年7月末にオープンしたハレクラニ沖縄のフラ ソリストとして、グランドオープンより月に2回ステージに立つ。
2019年~ハワイアンイベントや企業パーティーなどへのゲスト出演も多数。ポリネシアンショーのプロデュースも手がける。
長身を活かし、モデル活動を並行して行っている。コンテスト受賞歴も多数。

共演 Hula Hale プロフィール
2008年から三木労音サークルフェスティバルに参加。2年ごとに三木山森林公園で合同ホイケを開催するほか、施設でのボランティア活動も。踊れば踊るほどフラの虜になってしまったメンバー、現在は月2回のレッスンで勉強中。


三木労音6・7月例会(第201回)
KOʻOLUA (コオルア)ハワイアンコンサート
2024年6月16日(日)14:00開演
三木市文化会館小ホール
三木労音会員へ入会希望の方は、チラシ裏の入会申込書に会費2か月分(コオルア例会から参加希望の方は6・7月分)と入会金(1,000円)を添えて、三木労音会員か事務局までお申し込み下さい。
ホームページからの入会申込みはこちら→http://www.mikiroon.com/info.html
詳細は三木労音事務局 TEL 0794-82-9775、またはメールinfo@mikiroon.comまでお問い合わせください。

2024年4月22日月曜日

心に響いた歌の数々。凛とした島本さんの姿勢に励まされました!

先週の4月14日(日)、三木労音第200回例会の「島本弘子シャンソンリサイタル」を開催しました。
200回もコンサートを開催し続けている団体は、三木では他にないと思います。ここまで続けてこられたのも、現在の会員の皆さんをはじめ、これまでいろんな時期を支えてくださった方々のおかげです。あらためて感謝申し上げます。

さて200回目という節目の例会にご出演いただきましたのは、労音とも縁が深く、三木労音創立初期には2回ご出演いただきましたシャンソン歌手の島本弘子さん。
今回28年ぶり3回目のステージは、50年以上の大ベテランだからこその、まさに人生そのものが歌声に表れているような、味わい深く心打たれるステージでした。

当日は、午前中から本番と同じだけのリハーサルをされた島本さん。
歌えば歌うほど声が伸びてゆく素晴らしい体力と、全ての歌詞と進行をしっかり記憶し完璧に進められる集中力を今も維持されているのは、並々ならぬご努力があってのことと、本当に敬服の気持ちしかありません。


今回は歌とピアノのみのシンプルなステージ。こういう場合は特にそれぞれの技量や存在感が際立つものですが、にしかわまことさんの素晴らしいピアノ演奏が歌の世界を一層引き立たせました。


そして島本さんの歌は、歌詞の中身がとても伝わってきて、1曲1曲がまるでそれぞれ物語のよう。パリの街角の風景、故郷の風景、若かりし頃の華やぎ、人生の最期を迎えた心境・・・そして戦争に対する憎しみ、おろかさを歌うなど、作品の深みと説得力は、まさに脱帽です。


今回のプログラムは一般的に知られていない作品が多くありましたが、島本さんが「今」心から歌いたい作品を、と選ばれた曲目でした。
あらためてシャンソンの幅の広さと懐の深さを感じ、魅力を発見した選曲だったのではないでしょうか。
お一人でサポートされたにしかわまことさんにも、賞賛の声が多く寄せられました。


シンプルな中に、人生の素晴らしさ、生きる喜び、悲しさ、尊さが詰まった、シャンソンの真髄を存分に聴かせていただきました。

終演後には島本さんを囲んで、打ち上げもさせていただきました。


これからもお元気で、心に響くシャンソンを歌い続けていただきたいです。
私たちも島本さんにあやかり、末永く続けていこうとあらためて思いました。
人生の大先輩、島本弘子さん。本当にありがとうございました!